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9月20日(日)新宿十二社、熊野神社例大祭-三年に一度の本社神輿渡御 [祭]

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9月20日(日)、新宿地区最大の「祭」である新宿・熊野神社例大祭、今年は三年に一度の陽祭で、この日本社神輿の渡御が執り行われた。新宿・総鎮守として知られる十二社の熊野神社、その歴史は14世紀まで遡る。紀州・熊野神社の神官であった鈴木家の末裔である鈴木九郎はこの地で自身の故郷である紀州・熊野神社の十二所権現の一つである若一王子を祀り、その後商売で成功したことを契機に十二所権現を祀る社を建てた。江戸時代は熊野十二所権現社と呼ばれ、この辺りは茶屋や料亭など100軒以上に及ぶ花街として栄えた。明治以降、熊野神社と名称を変えたが、このあたりの花町は戦前まで栄えていたそうだ。十二社・熊野神社のあたりはもともと滝や池がある景勝地だったが、明治の時代に玉川上水を引きこんでの浄水場である淀橋浄水場が造成されて景観は失われた。その淀橋浄水場も昭和40年には廃止、ここが再開発されて今の新宿新都心の高層ビル街へと変貌している。こういった歴史の中で、今でも新宿周辺の総鎮守として信仰を得ている。新宿駅の東口と西口一帯に熊野神社の氏子がおり、これが各地域の睦となって、この睦の連合によってこの熊野神社例大祭は執り行われる。

現在の歌舞伎町1・2丁目は、実は三つの神社の氏子が存在する。歌舞伎町が出来た昭和23年以来「歌舞伎町」とは現在の1丁目を指し、ここが熊野神社の氏子である歌舞伎町睦、2丁目は昭和53年の名称変更までは西大久保という町名で故に鬼王神社の氏子であり、また現在歌舞伎町1丁目1番地にあたる新宿ゴールデン街もかつては三光町だったため花園神社の氏子である。だが、現在はここからここまではどこの氏子だからとかそういうことは薄れ、熊野神社の例大祭では神輿の担ぎ手も一応は熊野神社の氏子らを中心に周辺の祭好きが集まって新宿全域が盛り上がる。この日は3年に一度の本社神輿渡御、歌舞伎町の街御輿も同じ13時に弁天堂を宮出しするのだが、まずは本社神輿の宮出しへ、その後歌舞伎町に戻って街御輿につき、本社神輿が歌舞伎町に入る15時からは歌舞伎町睦が本社神輿を担いだ。セントラルロードから旧コマ前を経て劇場通り一番街へと二基の本社神輿が練り歩く姿は圧巻。

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本社神輿渡御を終え、夜(18時から)は街御輿で町内を練り歩く。熊野神社の担ぎ方の流儀は通常千鳥担ぎなのだが、夜は江戸前担ぎ、19時半の宮入りまで盛り上がった。

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新宿駅周辺の商店街が一体となって行う催しは、7月に行われる新宿エイサーまつり(関連記事)とこの9月の熊野神社例大祭がある。西口東口が融合してという意味では熊野神社例大祭のほうがスケールは大きいが、いずれにせよ前者エイサーまつりは「イベント」であるのに対し後者熊野神社例大祭は「祭り」である。イベントとはいわば来街者向けのPR的要素が強く、一方で「祭り」は神事であるとともに街の内側向けの部分が強いと言える。イベントは予算の範囲でPR効果の高い場所や手法で合理的に企画される一方で、祭りは「見栄」であり、街を仕切る正統性をもつもののアイデンティティを示す場でもある。一年にたった一日のことであるが、ここに全精力を注ぎ込んで“ザ・街”はどこにあるのかを見せつける。これは、今の街づくりにおいて活性化だの更新だの言われる中で最も重要な部分が何かを示している。つまり“街のアイデンティティ”の構築である。そういう意味でいえば、外から見る歌舞伎町のイメージと、それとは大分違った景色がそこにあることを見てもらいたい。言葉のあやかもしれないが、外から見た歌舞伎町の姿を歌舞伎町的と言うとすれば、街のアイデンティティはむしろ非常に“非歌舞伎町的”なものであり、その姿こそ、実は本来“核”たるものにあるべき姿だと思っている。言葉のあやと書いたのは、イメージとしての虚像感によって膨張してきた歌舞伎町の姿と、それを制御するように“非歌舞伎町的”な姿とが存在しあい、互いに拮抗してこそ本来の歌舞伎町らしさを創り出している。一年に一度のことではあるが、この熊野神社例大祭はホント、いい祭りだと思います。

 


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