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10月21日(日) 第3回 新宿ゴールデン街フリーマーケット開催 [イベント]

10月21日(日)11時より17時、三光商店街振興組合主催による第3回新宿ゴールデン街フリーマーケットが開催された。昨年10月15日、そして今年に入って4月15日(関連記事:前回4月15日(日)第2回 新宿ゴールデン街フリーマーケット開催)に続いて、ゴールデン街でフリーマーケットが開催されるのはこれが3回目。約250軒ある店のうち、約35軒がこのイベントに参加し、普段は深夜の街であるこのゴールデン街が朝から賑わうというめったに無い景色が見られた。

  

マニアックな昔のレコードが100円とか、懐かしいアニメキャラクターのプラモであったり、また、この街で働く女性の出展が多く、よくあるフリマに見られる洋服なんかも多かった。このフリーマーケットのイベント中は、参加店では特にチャージを取られることなく一杯500~600円程度で呑める。また、写真展などを開催していた店舗もあった。店には人が溢れ、結局路上で酒盛りってことになるのは毎度のことです^^;

今井秀実写真展「ゴールデンな仲間達」より

 

普段シャンソンを歌うソワレさんもこの日は割烹着で。

 

主催する三光商店街振興組合の事務局前では、フリーマーケット抽選会が開催されていた。各お店で500円以上買い物なり飲み物なりに使うと500円ごとに一枚の抽選券がもらえる。今回からの新しい試みとして始まった。割と高確率で当たりが出てたようです^^

街は生きている。街のこと、ゴールデン街の先行きのことをあまり口にはしない街の人たち。だが、その口にしないだけで想いが無いわけではない。その街の人たちの想いを考える前に、まずこの街の歴史について少し書いておこうと思う。

◆ゴールデン街の歴史

昭和21年1月12日、警視庁は「公娼制度廃止に関する件」という通達を各警察署長宛に出している。この措置は同年1月25日より実施されたのだが、これによって公娼は廃止されるも“私娼として稼業継続を許容す”とあり、つまり“公娼の私娼”という形に変わったということである。この年の11月では吉原、洲崎、新宿など従来の集娼地域を指定地域として赤線で囲んだことから公認の私娼地域を赤線地域、公認されていないもぐりの私娼地域を青線と言った。戦後新宿は焼け野原のなったわけだが、やはり二丁目にあった遊郭も全焼。その後、赤線として再スタートした当時の娼婦は44名だったという。その後、昭和26年には459人に膨れ上がっていった。娼婦といっても時代の流で、言ってみれば斜陽族とか専門学校卒とか、あるいは部屋に上がると哲学書だの美術書が置いてある。「彼女達の好きな音楽は流行の美空ひばりよりも江利チエミや雪村いずみ、テネシーワルツが好きだった~。」みたいな話を当時のことを書いてあった本にあった記憶がある。こうしたその時代における流行の最先端的な自前の娼婦達の一部が、一区画四坪前後の店舗併用住宅として分譲されていた当時の三光町(1978年住居表示に伴い歌舞伎町1丁目に変更)、今で言うゴールデン街に集まってきた。

話は前後するが、新宿駅周辺には関東尾津組の尾津喜之助、飯島一家内山二代目和田組の和田薫、東京早野会初代分家安田組の安田朝信らテキヤらが開いた闇市があったわけだが、それらがGHQの意向により整理・撤廃が始まったのが昭和24年秋、当時東京都は転廃業者には更正資金を、集団移転をする業者にはマーケット建設資金の斡旋を行った。昭和26年暮れには都内のほとんどの露店・闇市は消え去ったという。そのうちの和田マーケットと尾津のマーケットから約142名が、新宿二丁目からの自前娼婦らと共に歌舞伎町の都電線路を隔てた三光町の一角に流入、青線を点す街として出来上がった。当時、入り口付近の2棟に旧新宿2丁目組は集中、花園街と称した。一方、その奥には3棟、当時より三光商店街と言った。新宿二丁目組より一歩遅れて商店街が形成、しかし業態は同じものだったという。当時より、この街の建物は木造3階建て、地上部分は商店や店舗、2階は住居、3階は屋根裏部屋という構造の長屋であったが、昭和33年の売春防止法施行までは1階が呑むところで、上階で売春、そんな風景であったわけだが、昭和33年の売春防止法施行はその姿も徐々に消えていく。やがて飲食店、飲み屋街という風情が優勢な状況となり、やがて現在の“ゴールデン街”と呼ばれる街の形を形成していくことになる。

昭和26年前後、まず最初に入ってきた新宿2丁目組は手前2棟に入居、これを花園街と言った。一方、それより若干遅れて奥の3棟に入居してきた和田・尾津マーケットからの流入者らが三光商店街を形成した。これが、その後のこの地域のコミュニティの複雑さを作る原型となっている。現在、このゴールデン街には3つの町会組織がある。まず、新宿2丁目組によって形成された手前2棟側組織(現在は地権者組織となっている)が花園街商業協同組合(萩原征男理事長)、奥の3棟が三光商店街振興組合(奥山彰彦理事長)、そして後に手前花園街2棟の店子組織が立ち上げたゴールデン街商業組合(外場山文明理事長)となっている。ちなみに、昭和40年ごろ、花園街2棟の店子組織が立ち上がったとき、花園街は地権者らの組織で使っていたためになんかいい名称は無いかとなって、「ゴールデン街」とい呼び名をこの街で使うようになった。今でこそ、ゴールデン街と言うと、このエリア全体を指すのが一般的であるが、最初の頃は手前2棟(通りで言うとG1・G2・花園一番街の南側)のみをゴールデン街と称していた。

1970年頃、線路の右手がゴールデン街にあたるエリア。昭和45年に都電が廃線になっているが、その廃線になった位ばかりの線路で野球をして遊ぶ子供たちの姿と思われる(撮影は故・渡辺克巳氏)。この線路部分がやがて現在の四季の道になる。

1964年東京オリンピック開催に伴い、国際都市東京という名目の元に売春防止法が施行されたり風俗店に対する取締強化が行われた昭和30年代に、この街も一時は時代の流れに飲み込まれようとしていた時期がある。だが、当時、中野区の教育長からこのエリアの東に隣接する四谷第五小学校に赴任してきた校長が「街並みの保存」ということに力を注ぎ、風俗営業の許可に対する後押しをした。これがこの時期を乗り越えたことにつながる。やがて、ゴールデン街として50年代の雰囲気を残す昭和レトロな街並みが人気に拍車をかけて活況を呈するが、バブル期の1990年から2000年頃、この場所も地上げの嵐に見舞われる。再開発も目論む業者が銀行から巨額の融資を受け、たった3坪4坪の土地と建物を億単位で買収、一時テナントの立ち退き料は1,000万を越えていたという。一時200軒を越えた飲み屋がひしめいていたゴールデン街は140軒以下となり、虫食いだらけ、また1987年以降2003年にかけ6件の火災がこの街で起きているが、そのうち何件かは地上げ絡みの不審火と見られている。(参考記事:5月8日未明 新宿ゴールデン街で火災発生-負傷者等は無し、延焼もほとんど無く鎮火-

バブル期、人も客も多くがゴールデン街から去っていった。しかし、平成12年3月1日より施行された「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」(いわゆる「定期借家法」)により、地権者が再開発をいずれ考えているにしても立ち退き料を考えずにスペースを貸せるようになったことで再びゴールデン街に人が集まってくるようになる。アーチストや役者、自称文化人らが小遣い稼ぎに店を開くといったケースも増えてくる。ゴールデン街には現在約250軒の店舗があるが、戦後この街が誕生して以来最も賑わっている最盛期にあるといってもいいかもしれない。だが、これも店子の権利を旧借地借家法の権利を放棄し、定期借家の契約にしたことによるものだというのはやや皮肉でもある。

◆ゴールデン街再開発話は他人にはあまり知られたくない過去を消し去りたい地権者らの思惑か。

再び、東京にオリンピックを誘致しようという今日、ゴールデン街は再び再開発の話題が持ち上がっている。発端は、入り口側2棟の地権者組織である花園商業協同組合(萩原征男理事長)が2006年5月、ゴールデン街の更に南側にある東京電力と靖国通りに面した地権者によって「歌舞伎町一丁目東地区まちづくり協議会」を立ち上げたことによる。すでに、靖国通りには地下鉄13号線(副都心線として来年6月開通)に伴う地下街(サブナード)の延伸計画が協議されている。新宿区はこれを今年度中には都市計画決定を目指しているが、現実には事業スキームの複雑さからもう少し先になると見られている。しかし、地下街延伸は近隣の建物更新を誘導する。靖国通りに面した地権者はこの期に建替えを考えているが、その際に裏手に位置する東京電力、そしてゴールデン街の地権者らも共同での合築による再開発が出来れば、前面道路を40mの靖国通りとすることが可能になり、一挙に容積を上げることができる。つまり、地権者としての資産価値・収益性を何倍にも引き上げるチャンスと見たのだろう。花園商業協同組合の萩原氏は、当初単独で新宿区地区計画課に再開発の話を持ち込んだ。しかし、地権者の複雑さ、店子側の意志も不明確なこの場所において新宿区も区としてこれを先導できるはずも無く、一度は追い返している。その後、靖国通り側地権者と合流し、新たに歌舞伎町一丁目東地区まちづくり協議会として再度新宿区に訪ね、現在地域の再生・更新、経済構造改革を誘導している歌舞伎町ルネッサンスの流れに入りたい旨を申し入れた。「まちづくりのあり方を学ぶため」というのが表向きの萩原氏の申し入れで、これを新宿区としても断る理由は無いことから、歌舞伎町ルネッサンスのまちづくり協議会の会合に過去、萩原氏自身も参加したことがある。

仮に地権者や店子の合意形成があれば、例えば連担建築設計制度などを使って街並みを保存しながら空間容積を委譲し、低床建物の再開発と高層ビルの再開発を併用しながら進めていくという手法もあることは以前もこのブログで書いてきた。しかし、現実には、多くの店子が定期借家による契約、つまりうかつなことを言い出せばすぐに地権者から追い出されてしまう。つまり、意志を現しようのないサイレント・マジョリティが今のゴールデン街を支配している。店子らの口にしない本音は何か?ゴールデン街の街並みを残したい?いや、要は金。金さえもらえればとっととゴールデン街を去る?それとも、どうでもいい、ただ自分の体が動かなくなるまでのんびりと今のペースで店を続けていられればいい、めんどくさいのはイヤなだけ?あるいは最近ゴールデン街に店を出したばかりの若い人たちにとってはどれもどうでもよくて、今あるゴールデン街というブランドを活かし、まずは次の人生へのステップとして考えている?多分、どれも当たっている。割合こそ違うかもしれないが、店子として店をやっている人たちの心には何割かづつこんな想いが存在している。

では、地権者らの思惑は?

これは歌舞伎町ルネッサンスでまちづくりをしているときにも共通することだが、その地権者がやがて去ることを前提に売りぬけを考えているケース、街に留まることを前提に地域の発展を重視しているケースと、口では言いにくい本音の部分を見極める必要がある。前者、売り抜けを求めている場合は資産の短期利回りを重視するため店子の管理はどうでもいい、違法であろうが無かろうが高い家賃が取れればいい。そして、再開発話を持ち出し資産価値がこれからもうなぎのぼりであることを強調し、高値で買ってくれる相手を探す。一方、街に留まり、地域の発展を重視する地権者にとっては、固定資産税が重くのしかかってくるので、これを低減させようと資産価値の向上はさほど望まない、というか、むしろ下がってもいい。そして、街の活性化を望むゆえに、業態などビル管理を厳格化させ、また街で踏ん張り続けるための収益性を高めるためにテナントの質の向上や建物の整備や清掃に力を注ぐ。こういった視点をゴールデン街の地権者に当てはめてみるとどうか?

確かにゴールデン街はこれまでも再開発の波(といっても噂が主だが)にもまれてきた。しかし、今の話の発端である入り口側2棟の地権者、とくにその中心である萩原氏は、再開発に関する意思を自ら新聞等にリークして誘導、だが現実はどうかといえばその地権者組織でさえ意志がまだまとまっていない。しかし、こういった噂は、この街の資産価値を再びバブル期のような状況に繋がる兆しを見せ始めている。すでに、昨年坪2,000万でゴールデン街の一角に土地を購入したものがいた。当然現状の家賃相場(坪2~3万、地上2階)でこの土地の値段で回るわけも無く、つまり再開発による地価高騰を目論んだ投資であることは言うまでもない。だが、現実は、もっと根深い心の問題がこの街に存在していることが、むしろこの街の再開発話の現況であると思える側面がある。「地権者の多くは、かつてこの場所で体を売っていた母親の息子たち。そう言われ続けてきたからこそ、土地は持っていても今となってはこの街に顔を出すこともほとんどない。だが、もうそういう風に言われ続けることから開放されたいんだろう。再開発話はでっち上げ、結局はどこかのディベロッパーや建設会社に高値で売りぬいて、この街と縁を切りたい、もう忘れたいと思っているだけ。」そんな話を街の人たちから耳にすることが多い。実際、ディベロッパーの一社である大成建設系のコンサル会社がゴールデン街の調査などを行っているのを目にすることはあるものの、噂ほど再開発の嵐が近づいているようには到底感じられない。となると、やはりゴールデン街がこの先どうなるか、その根っこは、戦後の知られたくない記憶を消し去りたい一部の地権者側の思惑ってことになるのかもしれない。

ゴールデン街、そして歌舞伎町もそうだが、ここは来街者によって成り立っている街である。そして、この街を愛する人たちが支えている。六本木や銀座には無い、どこか地べた感があって肩書きや上下関係を気にしない肩の力を抜ける雰囲気と、街の持つやや猥雑で独特な空気が人を惹き付ける。こうして、ゴールデン街の歴史をここに書くことを良しと思わない人たちも多い。人には他人に知られたくない過去や傷がある。だが、あえて書いたのは、やはりまちづくりにはその街の歴史を踏まえ、今をちゃんと見て未来を考える必要があるからだ。自分としては、このゴールデン街が未来永劫この状態のまま存続するとは思えない。特に防災上の観点から言っても、いずれ、何らかの形で更新は行われなくてはいけないはずである。ただ、その「時」に向けて、どういったプロセスでそこに向かうのか。また、それぞれの立ち居地が違う人たちの思惑の中で何が優先されてそこに至るのかを見届ける必要はあると考えている。そして、そこに仮に暴力的な資本の力なりが入ってきて、実際に合意無くこの街で生きていこうとしている人たちの心を踏みにじるようなことが起きたときには声を上げる使命があると思っている。はっきり言えば、高値で売りぬきたいと思ってる地権者は売りぬいてさっさとこの街を去っていけばいい。街づくりとは、この街に留まる人たち、そしてこれからこの街に資本を投下する人たちと考えるべきものである。去らざるを得ない状況があるというのなら、そこには配慮が必要かもしれないが、自ら高値で売りぬいてオサラバを考えている人たちと一緒にまちづくりが出来るはずはない。


グリーンバード歌舞伎町チーム、新宿ツアー第一弾が10月21日開催

昨年8月より定例で毎月第1・第3月曜19時より一番街アーチ下に集合して歌舞伎町でのゴミ拾い活動を続けているボランティア組織グリーンバードの歌舞伎町チーム(チームリーダー砂押悠子)では、いつもの掃除-呑みというだけでなく、時には新宿の文化に触れたり新宿や歌舞伎町を味わおうということで、新宿ツアーというのを企画、10月21日にその第一弾が行われた。グリーンバード歌舞伎町の新宿ツアー第一弾は、お掃除の後にゴールデン街散策(この日はフリマ)、そしてその後は新宿三丁目にある末廣亭に行って寄席体験、というコースでした。

集合は14:30 新宿区役所前 新宿区環境保全課が気を使ってくれて、ゲートを空けといてくれた。掃除コースは区役所前から靖国通りを渡りモア4番街から新宿大通りへ。新宿大通りは日曜日ということで歩行者天国でした。

  

新宿東口駅前広場でゴミ拾いをした後、アルタ前からモア2番街、そして靖国通りを渡ってセントラルロードから歌舞伎町へ。

 

 

総勢22名が参加、この後、ゴミをいつものヒューマックスパビリオン(ゴミ処分は㈱HUMAXが協力)に運んで、フリマをやってるゴールデン街へ。

 

写真はブライアンバーG、ゴールデン街の花園1番街の真ん中当たりにて。ゴミ拾いに参加してくれたルカ君と悠子、乾杯!

 

後半の末廣亭ツアーには12人が参加、17時から夜の部の寄席、ってこれは21時までやってるんですが、さすがに前半2時間でみなさん一杯一杯に^^;寄席って中が暖かいもんで、何気に眠くなっちゃうんです。。。まぁ、これも経験ってことで。

寄席の後は、7人で沖縄料理のお店、伊勢丹会館にある「ナビィとかまど」へ。

 

鍋を食べたり、ラフテー、ちゃんぷるーなどを食べながら、泡盛の利き酒大会に^^;みんな酔っ払ってなんだかよくわからなくなってましたが・・

 

グリーンバード歌舞伎町チームのゴミ拾いは、誰でも参加自由。定例は毎月第一第三月曜19時より歌舞伎町劇場通り一番街のアーチ下付近に集合、約1時間のゴミ拾い。途中からでも呑み会からでもOK!なお、新宿の文化に触れたり街を味わう新宿ツアー第2弾も近く開催予定です。


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