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6月8日(金)「デージーの咲く街-新宿物語」(歌舞伎町大久保公園特設テント劇場公演)6月17日(日)まで [映画・演劇・ライブ]

6月8日(金)、歌舞伎町2丁目にある新宿区立大久保公園に設置された特設テント劇場を舞台にした演劇「デージーが咲く街-新宿物語」(「デージーが咲く街-新宿物語」上演実行委員会事務局03-3209-9291(歌舞伎町商店街振興組合)・東京ギンガ堂 03-3352-6361)がいよいよ幕を開ける。公演スケジュールは6月8日(金)より17日(日)までの10日間、毎夕19時より(開場18:30)。

東京ギンガ堂公演「デージーが咲く街-新宿物語」

2007年6月8日(金)~17日(日) 10ステージ/18:30開場 19:00開演 於:歌舞伎町大久保公園特設テント劇場

 

参考:5月10日(木) 東京ギンガ堂公演「デージーが咲く街-新宿物語」記者発表

↓大久保公園に設置された特設テント劇場、客席数は補助席等も含めれば約270席。

 

第二次大戦の敗戦後、焦土と化した日本のあちこちに、統制経済に喘ぐ市民が生活物資等の仕入れ・販売を行う闇市が立ち上がった。東京でも池袋、渋谷、新宿、新橋など多数存在した。そのなかでも新宿は「光は新宿より」をスローガンに廃墟そのものの街並みであるにもかかわらず底抜けに明るい、しかしそこには一種の秩序ある闇市「尾津マーケット」があった。「人は煮えくり返り、しかも一歩裏へ入れば荒涼な焼け跡、だが女子供老人が歩いても少しも怖くない。」(野坂昭如氏、尾津豊子著「光は新宿より」の前文にて)と、当時治外法権のアメリカ人や台湾・朝鮮の人たちの一部による傍若無人な行動があり、これに対して体を張って街とそこに生活する人たちを守り、また闇市での仕入れや販売に対し適正価格による商売を奨励しつつ、もちろんここでは会費等の収益をとったわけだが、警察力の及ばない治安を警察に代わって支えた、いわゆる古き「ヤクザ」がそこにいた。当時、その大親分が関東尾津組の尾津喜之助である。

尾津喜之助(画:中澤弘光画伯)

敗戦は、あくまで軍隊が負けただけのことである。日本全否定の風潮が世間一般にあったなかで、歴史・習俗・伝統など戦勝国の言いなりになることはないとして、尾津は任侠の世界という狭い範囲ではあったが、それでもただ一人それを貫き通した人物である。新宿の闇市は、その後極めて活況を呈し、しかしそのために地価の高騰などによってGHQや地権者等からは闇市はむしろ邪魔な存在になった。1949年にはGHQの闇市撤廃命令が出され、尾津のマーケットも当時の場所(伊勢丹前の新宿大通り付近)から追い出されていく。尾津のマーケットで生活していた人たちのその後に移転した先の一つが、今ある新宿ゴールデン街でもある。

そんな時代をモチーフに、一人の子供の目線で脚色されエンターティンメント性を加味して書かれたのが今回の「デージーの咲く街-新宿物語」(演出:品川能正 脚本:石森史郎)。大久保公園内に設置された特設テント劇場のステージには当時の闇市が再現され、歌舞伎町を創った男、鈴木喜兵衛や紀伊國屋書店の創業者、田辺茂一などもストーリーに絡み合って登場する。

  

 

 

デージーはどこにでもある他愛も無い花だが、どこにでも生えてくる生命力の強い植物、いわば敗戦の焦土に息づく街の人たちの希望と人生の象徴なんだろう。そんな姿を描いた「デージーの咲く街-新宿物語」(歌舞伎町大久保公園特設テント劇場公演) がいよいよ幕を開ける!

□6月8日初日

ほぼ満席の初日公演。すでに6月9日(日)の分も前売りは完売状態。

6月9日(土)は中山弘子新宿区長も観劇にこられた。写真は、舞台終了後、演出の品川能正氏(東京ギンガ堂代表、左)と脚本の石森史郎氏(右)と一緒に中山区長。

中山区長の観劇後のコメント:「新宿は良くも悪くも民の多様な力で育ってきたというのを、この演劇を見て確認できたし、楽しめました。新宿への想いを、みんなで重ね合わせることが出来たんじゃないかなと思いました。(去年の品川さんの演劇をみて)品川さんは割りと理屈っぽいんですよね(笑)。でも、社会を映すって言うのかな、そういうのは今の時代も、それから60年前の時代も生きている人たちの想いというのは同じなんだなというのは感じさせてくれるし、踊り・タップ・音楽というのは気持ちをものすごく楽しくさせてくれると思いましたね。この街の持っている遺伝子というその力を大事にしながら、そしてその時代時代ごとの人々が主役になれるようなそういう街づくりをできるんだなって、私は力をもらいましたね。」

  

大久保公園特設テント劇場、その裏手は役者村に。

 

舞台で主役級の役柄だった野口真緒ちゃん(右)ら子供たちが公園のあたりを駆け回っている姿は、なにか懐かしい景色でもあった。

連日満員御礼状態、10日間の興行で動員数は3,000人を優に超えた。

↑最終日、千秋楽のステージ

品川能正の東京ギンガ堂にとって、歌舞伎町でも興行はこれが二回目。当初、もう5m幅の広いテントにする計画(収容キャパ400名程度)で始まった企画であったのだが、諸事情により定員222名(補助席、桟敷をのぞく)というサイズになった。満員御礼とはいっても、動員管理においてはいろいろ苦労もあったようだ。東京ギンガ堂によると、今回の演劇は、総制作費は約3,000万と聞いている。これに対し、文化庁からの補助金、地域からの協賛、そして約3,000人の興行収入を考えると、実質的にはほぼとんとんと言ったところか。区有地である大久保公園での野外興行ということで、歌舞伎町ルネッサンスの一環ということで可能にはなったものの、許可関係・消防設備、その他いろいろとハードルがあった。「大衆文化の企画・生産・消費の街づくり」と言うお題目があるからこそとはいえ、現行のシステムの中では一つ一つのハードルはすなわちコストに跳ね返ってくるわけで、例えば大久保公園内に当時の闇市を模した屋台村を作ろうというアイディアなど実際には実現しなかった部分も多い。品川氏でなくとも、ルネッサンスの流れに乗って歌舞伎町という街をステージして活用しようとする人たちは多いが、地域・行政にとっては「やることに意義がある」側と、そこに外部から参加する側の「商業的なリスク回避、儲けなくてもいいが損はできない」と言う部分の温度差、ズレが常に存在する。今回の演劇も、10日でなく15日興行であったら、せっかく建てた野外特設テント劇場をもっと長期間活用し、その他のイベントや劇団にも開放することが出来たら、そしてそういったことが可能となる環境がもう少し整っていれば、この辺がまだまだ課題となっている。

それはともかく、品川氏の今回の興行、「まだまだ布石です。」と品川氏は語る。布石布石といって、じゃぁいつ本番よ?と言えなくもないが、用意されたキャパをフルに活用できたと言う意味ではプロデュースとしては成功と言える。これが動員6~7割にとどまっていたら大赤字になったことだろう。しかし、プロデューサーとしての品川氏と演出者としての品川氏は別かもしれない。今回の演劇は、言うまでも無く戦後の新宿闇市を仕切った尾津喜之助の話である。いわばヤクザの話であり、それを美化しにくい事情から「尾津」ではなく「川津」と役名まで変えた。今でも歌舞伎町で尾津喜之助を悪く言う人たちはいない。しかし、彼らヤクザに正義があった時代背景には、いわゆる三国人問題がある。戦前の差別的な扱いに対する反発から戦勝国側に回った朝鮮・中国の人たちの一部の治外法権による傍若無人から民を守ったのが尾津らであった。そういった時代背景を、ややテレビ的な手法でサラリと通り過ぎてしまった部分を、なにか物足りない、今の時代にも通じる問題提起があってもいいはずなんだが、その辺のメッセージが弱かった気がする。芸術論をここで言うつもりはないが、そもそも文化とか芸術というものは、あるいはこうして自分らが書くこともそうだが、すべてが表現であって、表現とはメッセージ、つまりどこかにアンチテーゼなりが無くてはいけないと思っている。そして、そのモチベーションは決して迎合することからは生まれない。そのエネルギーがまさにこの歌舞伎町の原動力、あるいはDNAだったはずのように思うのだが。


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